LeoShibata

柴田レオ(Leo Shibata)は、長野県(長野市-上田市-千曲市)出身の作曲家(Composer / Arranger / Producer)。20代から複数のペンネームを用いて活動している。


[人物・略歴]
父親の仕事(SBC=信越放送)の関係で小学生の時、3回転校した。ピアノ
6才
は4歳から始めたが、体格に恵まれていた柴田は、上田市内のサッカースクールに通い、また、ベースボール・クラブに所属し、水泳では学校代表もしていたスポーツ少年であった。戸倉上山田中学校では、スポーツ部や合唱部の顧問の先生からの申し出を断り、吹奏楽部に所属しトランペットを吹いていた。ギターに興味を持ち始めた頃、兄・敬一がバンドを組むことになり、ドラムがいなかったためやることになったが、当時5万円のドラムセットを1ヶ月で使いこなし、最高級ドラムセット
高校の文化祭にて-渡辺貞夫さんの「California Shower」 - 「Morning Island」をメインにバンドで演奏
(Pearl PresidentとZildjian、Paiste-Sound Edge等)を60万円で購入(これは、敬一が学校には内緒で、長野市内のクラブでピアノを弾いて稼いだお金である・・・)。敬一が上京するまでの約3年の間に、上田市内の歩行者天国、スキー場でのコンサートや、篠ノ井市民会館でのチャリティー・コンサート等、セミ・プロとして活動していた。また、当時購入した世界遺産的シンセサイザーであるminimoogを現在も愛用している。屋代高等学校に進学後、ギター・マンドリン・クラブに所属し、2年生の時はウッド・ベース
ウッド・ベース(県大会)
で、また、3年生の時は、指揮者
指揮者(県大会)
として全国大会で優秀賞(最高賞)に輝いた。Berklee College of Music (バークリー音楽大学)へ進学するに当たって、英語検定2級を取得した。英語は、父親がバイリンガルでもあり、また、叔母が国際結婚している環境ゆえ、小さい頃より慣れ親しんでいた。従姉妹のリリアン
リリアン・雑誌の表紙
は、アメリカを代表する小児癌の専門医であり、毎年のように大学病院に講演のため来日していた(現在も世界各国で講演)。尚、小学2年生の時に実母を、また、小学6年生の時に育ての母を病気で亡くしている。持ち前の明るさでそのようなことを微塵も感じさせないが、高校時代には、死とか宇宙のことを考えて眠れない夜もあった。

バークリー入学時には、前代未聞のハプニング!なんと専攻の楽器をドラムからピアノに変更した。「ドラムの方が好きだが、購入が義務づけられていたことと、ピアノ専攻でないと練習室が借りにくいために、教授の所へ押しかけてピアノを弾き許可を得た」。このことがあって、在学中、柴田のIDには、Drumsと印刷された上にPianoと記されたシールがずっと貼られていた。 バークリーでは、主に作曲・編曲・フィルムスコアリング(John WilliamsやQuincy Jonesの実践方法)を学び、後に、最も高名な教授であるハーブ・ポメロイ
ハーブ・ポメロイ先生とライブにて
氏に認められ自己のビッグバンドを結成したり、コンボバンドも結成した。フィル・ウイルソン
フィル・ウイルソン先生と校舎前で
氏のプライベートレッスンにおいて、New England Conservatory of Music (ニューイングランド音楽院)のオーケストラにおけるフル・スコアリングを行っていた。柴田のバンドでギターを担当していたLeo Quintero(リオ・クインテロ)氏は、ドラムスのSteve Gadd(スティーブ・ガッド)氏やベースのAbraham Laboriel(エイブラハム・ラボリエル)氏と組んで活動している。渡辺貞夫氏の紹介で、G.R.P.(Grusin/Rosen Productions)へのコンタクトも可能にした。渡米中、「本当に日本人か?」と言われたことが何度もあり、スイングの感覚がネイティブの人と同じで、これは、生まれる前から父親の影響で主にジャズとクラシック音楽を聴いて育ったからだ。

帰国する際に、「これからはコンピュータが音楽制作の主流になっていくから、シンクラビアを使えるように」と、アドバイスをシンセサイザー科の教授に受け、それがきっかけとなり、日本でシンクラビアの名手となった。また、1985年からApple Macを使用する超ヘビーユーザーである。帰国後、前田憲男氏に実績を認められ、多くのミュージシャンのライブ・コンサート用アレンジ、CD制作にも携わって来た。また、イベント
手前が兄・敬一、リハーサル会場にて
での作曲・編曲・指揮者をやりながらも、キーボーディスト
イベントにて
としても活動してきた。通常、バック・ステージでは、衣装直しが大変なのだが、欧米の体格である柴田は、手直しがいらないため衣装さんに喜ばれている(20代からの体型を現在も維持している)。変わったところでは、音楽雑誌「Jazz Life」に数年間にわたって寄稿をしたり、ホットミュージックスクールやヤマハの音楽講師陣の講師をした。

向上心のつきない柴田は、1998年以降、ミキシングとマスタリング法を修得している。もっとも、自分の得意分野のみということだが、ポップス、クラシック、ジャズ、オペラや民族音楽を今までに担当しているから耳の良さは昔も今も変わらない。

2000年頃から、アメリカ・ロサンジェルスにある村中リカ氏のunjazz music Inc.と提携し、Gerald Albright(ジェラルド・アルブライト)、Michael Caruso(マイケル・カルーソ)、Kenny Davis(ケニー・デイヴィス)、Peter Erskiner(ピーター・アースキン)、Lady Gaga(レディー・ガガ)、Onaje Allan Gumbs(オナージェ・アラン・ガムス)、Paul jackson jr.(ポール・ミルトン・ジャクソン・ジュニア)、Hubert Laws(ヒューバート・ロウズ)、Jeff Lorber(ジェフ・ローバー)、Marcus Miller(マーカス・ミラー)、Qwes(クウェス)、Harry Gregson Williams(ハリー・グレッグソン・ウィリアムス)、Hanz Zimmer(ハンス・ジマー)、ニューヨーク・フィルハーモニック・オーケストラ等とダイレクトに仕事ができる環境にある。

また、長年に渡って構築してきた膨大なsample dataとLive Orchestraを組み合わせた進化し続けるオーケストラ、SketchUp Orchestra(スケッチアップ・オーケストラ)略して "スケオケ" と名付けた柴田独自のオーケストラを用いての楽曲制作をメインに行っている。